【益子・観光】初の人間国宝・濱田庄司の作品とパワーにノックアウトされるスポット「濱田庄司記念益子伝承館」の見どころ
益子焼の魅力を体験するのにぜひ訪れたい「濱田庄司記念益子伝承館」。
「濱田庄司」は、実用品だった益子焼を芸術品の域に高めたことで知られる人。日本で最初の人間国宝4人のうちの1人にも選ばれました。
「濱田庄司記念益子参考館」では、そんな濱田庄司の自宅や工房、登り窯を見られる美術館です。
この記事では、「濱田庄司記念益子参考館」の魅力を詳しく紹介します。
「濱田庄司記念益子参考館」へでかけたら、益子で実際に陶芸体験がおすすめ! 比較的かカジュアルな値段で楽しめるので、以下のリンクから注目の体験をぜひチェックしてくださいね!
今だけお得!
この記事の内容をサクッと90秒でYoutue動画でチェック!
美術館の内部や雰囲気は動画のほうがわかりやすいです。
「濱田庄司記念益子参考館」は益子駅からレンタサイクルがおすすめ! 展示室は小ぶりでガラスケースに入っているので子どもとも回りやすい!
5棟ある建物や敷地内の屋外には、濱田庄司の作品や作陶の産国にした世界中から集めた工芸品に出会えます。
どの建物も小ぶりでガラスケースで展示されているので、子供でかけても回りやすい美術館です。
入り口わきでは「濱田窯」のアイテムの購入もできますよ!
濱田庄司の作品の特徴とは?
「濱田庄司記念益子参考館」はもちろん益子に出かけたときにしっておきたいのが、人間国宝の濱田庄司の作品の特徴! まずは2つをチェックしましょう!
濱田庄司の作品の特徴(1)/流しかけ
濱田庄司の作品の特徴(2)黍文(きびもん)
濱田庄司とは?
濱田庄司 陶工の軌跡
濱田庄司が工芸を志したのは15歳の時で、隣の家に住む洋画家木村荘八の蔵書の中から、美術志望者が少しでも工芸に進めば工芸の質が向上するというルノワールの言葉をみつけ、工芸家になる決意を固めたという。
板谷波山が教鞭をとる東京高等工業学校窯業科に進学、卒業後は学校の先輩であった河井寛次郎のいる京都市立陶磁器試験場に就職する。
1919年にバーナード・リーチを通じて柳宗悦を知り、翌年リーチとともに渡英して、本格的な作家活動を開始する。帰国後は益子を拠点としながら、沖縄の古窯壷屋でも制作している。柳や河井と語り合う中から生まれた「民衆的工業」の略語、「民藝」の調査を積極的に行い、そこから得た知識は、濱田の大きな力となって、独自の作風を確立していった。
濱田庄司の作品収集についての言葉
浜田庄司は,みずからの収集について,「その品に負けたから,求めて身近におくのだ」と言っている。負けたというのは,そこに美を認め価値を認めたことであった。こうして,かれはその「目」から栄養をゆたかにとり入れ,消化して「手」に生かし,数多くの陶芸の名品を世に送り出した。
仕事について,かれは「相手に聞く」とよく言ったが,それは土に聞き釉(くすり)に聞き,火に聞くことであった。
あらゆる生活の美を滋養として,自然そのものと一体になるところから浜田作品は生まれた。
作品のひとつひとつが使いやすく,平凡で複雑な美しさに満ちているのは,深く広く張った根が吸いあげた差分を,その心と手とが充分に生かしきっているからである。
濱田庄司が世界中から集めた工芸品
濱田庄司の自宅も見られる! 収集品や民藝の器や家具
ああ
濱田庄司の工房も見られる!
ああ
細工場(濱田庄司の工房)
益子町重要有形文化財指定
益子町大羽地区より濱田庄司により移築された建物で、彼のコレクションの一つであると共に、陶芸家としての制作の場でもあった。ここから彼の代表作が次々と生まれていった。
向かって右端の一回り大きなロクロが※田の使用したものである。演田は丸い盤の穴に棒を差し込み、で回す「手ロクロ」という手法を用いた。
他は蹴りロクロと言って益子焼の伝統的なスタイルのもので、演田の元で働く職人や弟子たちが使用した。
土室(粘土置き場)
釉薬置き場、囲炉裏など当時のまま残されている。
当時は茅華屋根であったが、茅u屋根の保持が難しく、瓦にき替えられた。
濱田庄司の登り窯も見られる!
今だけお得!
益子のおすすめ情報をもっと見る!
クーポンゲット!900円~益子でお得に陶芸体験!
この記事の内容をインスタでチェック!
インスタグラムやYouTubeでは家族でおでかけするのにおすすめのお出かけ情報を紹介しています。フォローしていただくと最新情報が届きます!